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椿尾散策の簡単豆知識

岩本山(いわもとさん)

 旧道(遍路道とも呼ばれている)沿いの山の斜面にある野仏群。六地蔵・七観音の裏手の斜面に位置する。岩本山本尊は男女のシンボルとなっている。極楽浄土の西の海を眺めている。岩本山付近は、石丁場でもあった。願いが叶うとの噂も。

 

六地蔵

 石工で名高い「五平」が文政八年(1825年)に作ったもの。「顔は端正で衣紋は簡略だが柔らかい」の評がある。一般的に六地蔵は「子どもの守り神」として信じられており、よく子どもが喜ぶお菓子が供えられているものである。お堂は、海からあがったといわれる石仏があり「竜王堂」とよばれている。

 

七観音

 石工、重次郎作といわれており、台座に嘉永5(1852年)とあり、石工善平の名などが刻まれている。 (六地蔵と七観音が一緒にいるのも珍しいとも言われている

 六地蔵、七観音とも、この野にあったが、訪れた島外の方が「雨ざらしでは、立派な六地蔵がかわいそうだ」と寄付があり、現在に至っている。

 

遍路道・旧街道の通り道

 遍路道、小木街道であったことから、堂の裏手には、庚申塔、真言供養塔、足尾山塔、など石塔がある。(道路拡幅でもともとの位置と変わっている)現在道路脇には、子宝を願ったという石塔の男性シンボルもある。庚申塔ー60日に一度巡ってくる庚申の日に健康長寿を願う塔。全国に数多い。 真言塔ー天災や悪疫の防除、飢餓などを避ける願いをこめた。 足尾山塔ー足の病を治すとして願いが込められた。遍路道、主要道の利用者のためものであろう)

 

夏焼の地蔵堂

 「夏焼け(地名)の堂という観音堂境内に庚申塔がある。他に真言供養塔、足尾山塔などもある。堂の内部には、多数の石仏群がある」(「歴史の道調査報告書第12集」平成10年3月新潟県教育委員会」)。この報告書では「観音堂」となっている。この報告書では「観音堂」となっているがご本尊様が地蔵様であり、「地蔵堂」が正解。
 お地蔵様の首がないものが多いが、願をかけるため、願いが叶う、病を直す願かけで首を飛ばす流行の時期があったためとか言われている。(地域の古老もハッキリ知らない)

 

三叉路の石塔群

 旧街道の椿尾地内の峠的な場所で、ここから小木方面に向かった三叉路で、近くには峠越茶屋があった。「青面金剛塔、真言供養塔,念仏塔などが並んでいる。」(「歴史の道調査報告書第12集」平成10年3月新潟県教育委員会」)
 この石塔の下には「茶屋」という屋号の家があり、峠の茶屋だった。

 

能舞台

 かや葺き、 寄棟造りである。脇正面の水引にかかわった彫り物がほどこされている。これは、社殿に対する奉納の意味から、 脇正面を正面として扱っているのであろう。

 舞台は3間 ×2.9 間の本舞台と 1.3 間の後座からなり床板は本舞台、後座を縦と横に振り分けている。主要な 柱は 215mm角で、18~20mmの切面取りがあるが、必ずしも柱の四隅全てに面を取っているのではない。...... 明治 35 年に旧拝殿を改造、移築して建て、それ以前は、その拝殿を兼用した能舞台だったと言われている。 改造の程度がわからないが、佐渡の能舞台の特徴を備えている。もともと、能舞台に近い寸法をもっていたは ずで、佐渡能舞台と拝殿の構造的関わりを示す貴重な能舞台である。(H5.3「新潟県文化財調査年報第 27 佐渡の能舞台」県教育委員会より抜粋)。境内には、文政に五平が世話人として作った石灯籠が2基ある。(簡素ではあるが、なかなかの出来であるという)

 平成22年に傷みが激しく朽ちる可能性が出たことから、修復と屋根葺きを行ない復活する。

 

奥の薬師堂

 「イャ、五平の作を云えば、今、椿尾の薬師堂にある数百(実際にはそんなにない)の石像は立派なものである」(「佐渡の昔の話」松田与吉著)と出てくるお堂。

 

石丁場

 正式には「石切丁場」というのであろうが、「石丁場」と呼んでいる。そこで石を切り出していた人の家の屋号で呼ぶ。(「***屋丁場」)いくつもあり、いろいろ山の中を回ればいけます。(未整備中)

 お地蔵様などの石の原材料を切り出した岩山。「たくさん石を採ったと思うんですが、下の方に掘り込んでいったために井戸のように水が溜まっており」(第14回全国天領ゼミナール、藤井三好氏)という、長年の石と人の関わりを感じさせる。現在も利用している石工さんが椿尾にいますから、現役の石丁場もあります。

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